コロナ禍で家族への感謝の気持ちが深まりました。

大学ではなにを勉強されていたんですか?

山田 化学です。だから毎日試験管を振ってました。白衣着てたんですよ。

どうりで考え方が理数系というか、
論理的で整然としていらっしゃいます。

山田 まじっすか。ありがとうございます。大学卒業するときは酪農をしたいと思っていて海外へ酪農を学びに行こうと思っていたんですけど、姉に「とりあえず就職でしょ? それからでも遅くないでしょ?」って言われて「ああ、そうか」って。じゃあ、実家が水産業だから魚屋になろうと思ったんですが就職活動をしていなくて、どうする?ってなって。魚って言ったら築地だと思って築地の荷受け、当時7社あったんですけど、片っ端から電話したら求人は締め切ってて。「それでも行きたいんです」って食い下がったら一社から「じゃあ来てください」と返事を頂いて、面接に行ったら「合格です」って。オレだけ別枠だったので、最初は同期にも「誰だあいつ? ヘンなやつ来た」みたいな感じでした。そこで8年間勤めて、30歳のときに島に帰ってきたんです。でも酪農もいまだに頭にあって。チーズとか作りたいなって。

なんだか楽しそうですね。

そうですね。鶏とかも飼いたいんですよ。牡蠣殻食べさせて牡蠣殻卵とかしようかなって。そしたら母ちゃんがヘビが来るからやめろって。ちゃんと対策しないとダメらしいんですよね。

なぜ30歳で島に戻ったんですか?

山田 長男なので30歳までには帰ろうと決めていたんです。カミさんは千葉の人で、結婚するとき「長男だけどどうするの?」と聞かれたんですけど「もうずっと東京だよ」って。サイテーでしょ?(笑)でも、島に帰ることになったときにカミさんが「覚悟があれば何でもできる」「どこにいても同じ」って言ってくれた。だからいま本当、頭上がんなくて、感謝しかないっす。ここ2年くらいほんとそれを感じることが多々あって。

どんなことが?

コロナ禍で牡蠣が売れなくなったときに「売れ残った養殖鯛が産直ECサイトですごく売れた」というネットニュースを見て、カミさんに「これやりたい」って言って始めたんですけど思いのほか売れてしまって。人気ナンバーワンになったのはいいんですけど、伝票整理とかがすごく大変だったんです。彼女の協力なしでは成り立たなかったし、いい気づきも与えてもらった。おかげでコロナ禍はECでしのぐことができたし、それでノウハウが蓄積できたのでその後いろいろお話を頂いてもスムーズに対応できるようになった。それだけでなく、ECサイトやふるさと納税のサイトでも写真とかの見せ方についてカミさんにアドバイスをもらってそのとおりにやったら申込みが増えたりとか、もう「ありがとう」しか言えない。でもカミさんには「嘘くさい」って言われるんです。

ウチはいつもお昼ごはんは一緒に食べるんです。昼休みは絶対家に戻って食べるので「いただきます」と「ごちそうさま」は必ず言うようにしてます。「元気出る」とか「今日もおいしいごはんありがとう」とか言うんです。それも「嘘くさい」って言われますけど。

いま現場で働いてもらっていて、今日もアオサの異物除去の作業をしてくれていましたけど、カミさん、疲れたときにヒップホップを聴いたりするんです。この間「タトゥー入れようかな」とか言い出して「何入れるの?」ってきいたら「だるま」って。けっこう面白いんですよ。そして常に前向き。そこはすごいなと思う。

コロナで家族への感謝の気持ちが深まりました。誰か一人でも病気とかしちゃったら、やりたいことも思うようにできなくなるので。そこは当たり前になるのはよくないと思います。

アオサ養殖のご苦労で、
いまお話に出た異物除去があるとおっしゃっていましたが、
やはり大変ですか?

山田 大変は大変ですね。でもだんだんと、どんなゴミが入っていてどうすればいいかということがわかってきて、以前よりは大変ではなくなりつつあります。最初の頃はやってられないくらい大変だったんですけど、だんだんと見えてきました。日々進化です。あとはもう、頑張って儲けるだけですね。

異物除去はクリアしつつありますけど、苦労はまだあります。自分や従業員が働いた分がきちんと対価として反映できるようにするには、まだ少し時間がかかりそうです。