五島列島ブランドのアオサを島全体で、
島のみんなで作り上げたい。
新上五島町を形作る中通島と若松島に挟まれた若松水道。複雑に入り組んだリアス式海岸が静かで深い湾を作るこの海で、株式会社マルオトの山田 大さん(41歳)は3年前、アオサ養殖に着手した。
現在、約1.81m×約1m、畳一畳分ほどの大きさの網を10枚つなげて一枚の棚とし、それを800枚張り込んでアオサを育てている。これで40~50トンの収穫が見込めるそうだ。
外海からゆっくりとおおらかに潮が入る若松水道は、水深が15~20mほどありよどみなく潮が対流している。陸地から近いところでこれだけの潮の返しが良いところも珍しい。加えて4mの干満差がアオサの生育に欠かせない光合成と養分補給をバランスよく促す。快晴の日に日光によく当たると、アオサは活発に光合成を行い、ぷくぷくと小さな酸素の泡を出すという。
2023年3月、そんな元気いっぱいのアオサを育てている山田さんを訪ねてアオサ養殖のこと、離振協との関わりなどたくさんのお話を伺った。そこから見えてきたのは、家族への愛、島へ希望、将来の夢。
次の一手を考えたときアオサにたどり着いた。
視察のご対応お疲れさまでした。
会われた方たちのお話でなにか印象に残っているものはありますか?
山田 アオサは乾燥させて出荷するのですが、どうしても湿気が残ってしまう。そのことにずっと悩んでいたのですけど、北村物産の北村社長に対応策を教えていただきました。大きな収穫です。悩みが一つなくなったので、いますごくハッピーです。
もともとは牡蠣養殖が生業のマルオトさんがアオサ養殖を始めたきっかけは?
コロナ禍で牡蠣の出荷が止まったからとも聞きましたが。
山田 大学を卒業してから8年間、会社勤めをしていました。そのときに上司からよく「うまく行っているときは黙っていても商売はうまくいく。だからそのときに一歩引いて、違う視点、違う角度で次の一手を作り出しておかないとダメだ」とめちゃくちゃ言われていたんです。
マルオトは真牡蠣と岩牡蠣がある程度売れるようになっていたので、次に、この島で、この地の利を利用して、効率良く作ることができて効率良く売れるものはないかなって考えていました。いくつか考えついたうちの一つがアオサで。それで始めたんですが、ちょうど時期的にコロナ禍とかぶったというか。
アオサ養殖の勉強はどのように?

最初はどんな機械を入れてどうやって加工をすればいいかもわからない、まったくの手探り状態で、インターネットやYouTubeで勉強したり、それでもわからないと近くの漁師仲間に聞いて、それでわからなかったら視察に行くというふうに勉強していったんですが、2020年の視察が最後です。そのあとはコロナで行けなくなっちゃった。
視察には鹿児島県長島町と三重県に行きましたが、個人的には長島町の若い人たちに刺激を受けました。個人の生産者さんでもそれなりに良い機械を使っていて、それだけいいものを作って高く売ろうという姿勢がある。僕らも長島町の方が入れているメーカーの機械を導入しました。
ただネットの情報にしても、誰かに教えてもらうにしても、視察に行くにしても、それをそのまま同じようにしても同じには育たないので、見聞したことを持ち帰ってからが長くて、そこからは親父と二人三脚で試行錯誤の連続です。
親父は技術肌というか職人肌というか、そういうところがあるので、常日頃アオサの状態を見ながら微妙に調整をしていって良い状態に合わせていくということをしました。最初の頃は潮が引いたときに夜中でも起きて、懐中電灯持って2人でチェックに行ったりもしていましたが、そのときに、親父は経験と勘でしかわからない、いろんなことを教えてくれました。
初めて収穫できたときは親子3人で乾杯したんですけど、そこからが長かった。3年目にしてやっと、今年中には一つ形になるのかなというところまでこぎつけることができました。
オレが物づくりをするときにはいつも親父がいてくれる。
離創協との出会いは?
なぜ一緒にやろうと思われたんですか?
山田 これまでもコンサルタントの方とかいろいろ来ていただいたんですが、あまり具体的な形にならなかった。でも、(離創協の)千野理事長たちは最初に来たときから違った。僕、直感でわかるんですよ、この人やべぇって。で、実際やばかった(笑)。

本当に僕らを思ってくださっているというか、愛がある、そして、結果が残るんですよね。親父もお袋も「千野さんたちはいままで来た人たちとは違うね」って。そうしたらあれよあれよと言う間にいろんな方が来て、将来につながるお話もいっぱいいただいて。
やっぱり千野さんは闘ってきて形を残してきた方なので、その一言一言に重みがある。コンサルタントの示す数字のその先を行かれていると言うか、もともとご自分で経営をされて、人を使われてきた方なので、人の痛みや弱さ、そういうところをわかってくださっている。だから、机上の計算で話されるような人とは、視点が違いますよね。そこが本当に素晴らしいし、僕らは魅かれる。優しさですよね、やっぱり。ここ、理事長に伝えておいてもらっていいですか?(笑)
でも本当に、この島が明るくなったというか。だから島のみんなももっと賛同したほうがいいのになって思います。これは「島の人あるある」なんですけど、よそ者に対して構えちゃうというか保守的なところがあって、そこは離創協さんにとってはちょっと難しいところかもしれない。
でも僕は、五島を知らない方がわざわざ来てくださること自体がご縁だと思うから、それで商売が決まらなくても僕は全然構わない。ただ来てもらって知ってもらって、ふとしたときに五島の風景とか、あそこであれ食べたねとか、寝る前の一瞬オレを思い出して「変なヤツいたな」とか、そうなってもらえれば嬉しいじゃないですか。だから僕らもできることは離創協さんとご一緒したいし、やって無駄なことってないと思っている。むしろ本当に、ありがたいことですね。
いつもお父様と作業を?

山田 はい。でも、従業員の育成もある程度できてきて、任せて動けるような子が育ってきたので、そろそろ会社全体で次のステップ入ってこうかなと考えています。そして、親父はレジェンドというか、黙ってそこで見守ってくれる存在になってくれればと。ただ、仕事が趣味というか、なにかしら海のことをしていたい人なので、良い居場所を作ることができたらいいなと考えています。
オレが物づくりをするときにはいつも親父がいてくれていて、一緒に作り上げてくれる。親父の協力があってこそで、それは本当に大きい。僕は、家族としてここで生活して、息子の代、孫の代と、順送りにこの島に生きつづける、そういうことを大切にしたいという気持ちもあります。親父とは喧嘩もするけど尊敬もしている。面と向かっては言いませんけどね。
離創協 マルオトさんがいいなと思うのは、お父様を尊敬していてお父様のやり方をきちんと伝承していく。お父様にしてもらったことをちゃんと続けていって、それをご自分の子どもの代に送っていこうとしている。そういうところが、マルオトさんを応援したい一番の理由なんです。
山田 子どもは4人いて、一番上が高1の女の子、その下が中1の女の子、3番目が小6の男の子で一番下が小1の女の子です。
いまは次女と長男が跡を継ぐと言ってくれていますが、僕としては何が何でも継いでもらいたいという気持ちはなくて、この島で育ったことを活かすことのできる職のうちの一つとして考えてもらえればくらいの気持ちでいます。この島にいると悲観的になる子がたくさんいるんです。過疎化だし、何もねーしみたいな。でも、海あるじゃん、て。宝の山の海があるじゃん、て。ここだから生活できているし、自分の生きている意味がある。都会にはたまに行けばいいんです。でも都会はカッコいいですからね、憧れる気持ちもわかります。
任せられる従業員の方はどんな方ですか?
山田 彼はこの島の出身なんですけど島のみんなが知っているほどのワルだったんです。でもすごく人に好かれる子で、僕らもそこを大事にしていて、日々楽しく仕事ができたら嬉しいという思いもあっていま任せています。そうしたら、その子の後輩も入ってきてくれて会社も次のステップに入って。僕はできれば従業員とかそういうくくりではなくて、彼らが独立できるような仕組みづくりとかそういうこともしたいと考えています。
従業員ではなく同士というか、島仲間の生産グループみたいなチームが作れたらいいのかなと。僕だって自分が認めない子というか、あるレベルまで来てもらわないとイヤだという堅物なところがあるんですけど、彼らはそれでも頑張ってくれているので、そこは僕らも愛を持って接して。縁あってウチの会社に入ってもらったんだから、みんなハッピーになってくれたら嬉しいですよね。
一次産業って、汚い、稼げない、きついというイメージがあるんですけど、それでもいいんだよって、誇りを持てる仕事にできたらと思っています。子どもたちも父ちゃんの跡を継ぎたいとか、父ちゃんの会社で働きたいとか、そういうふうに思えるように。すぐにはできないですけど、徐々にそうなっていけるように頑張っていかないとと思います。
そのためにはお金を稼がないとダメで、そこが今後の僕らの課題。だから、離創協とのご縁はありがたいです、ほんとに。
コロナ禍で家族への感謝の気持ちが深まりました。
大学ではなにを勉強されていたんですか?
山田 化学です。だから毎日試験管を振ってました。白衣着てたんですよ。
どうりで考え方が理数系というか、
論理的で整然としていらっしゃいます。
山田 まじっすか。ありがとうございます。大学卒業するときは酪農をしたいと思っていて海外へ酪農を学びに行こうと思っていたんですけど、姉に「とりあえず就職でしょ? それからでも遅くないでしょ?」って言われて「ああ、そうか」って。じゃあ、実家が水産業だから魚屋になろうと思ったんですが就職活動をしていなくて、どうする?ってなって。魚って言ったら築地だと思って築地の荷受け、当時7社あったんですけど、片っ端から電話したら求人は締め切ってて。「それでも行きたいんです」って食い下がったら一社から「じゃあ来てください」と返事を頂いて、面接に行ったら「合格です」って。オレだけ別枠だったので、最初は同期にも「誰だあいつ? ヘンなやつ来た」みたいな感じでした。そこで8年間勤めて、30歳のときに島に帰ってきたんです。でも酪農もいまだに頭にあって。チーズとか作りたいなって。
なんだか楽しそうですね。

そうですね。鶏とかも飼いたいんですよ。牡蠣殻食べさせて牡蠣殻卵とかしようかなって。そしたら母ちゃんがヘビが来るからやめろって。ちゃんと対策しないとダメらしいんですよね。
なぜ30歳で島に戻ったんですか?
山田 長男なので30歳までには帰ろうと決めていたんです。カミさんは千葉の人で、結婚するとき「長男だけどどうするの?」と聞かれたんですけど「もうずっと東京だよ」って。サイテーでしょ?(笑)でも、島に帰ることになったときにカミさんが「覚悟があれば何でもできる」「どこにいても同じ」って言ってくれた。だからいま本当、頭上がんなくて、感謝しかないっす。ここ2年くらいほんとそれを感じることが多々あって。
どんなことが?
コロナ禍で牡蠣が売れなくなったときに「売れ残った養殖鯛が産直ECサイトですごく売れた」というネットニュースを見て、カミさんに「これやりたい」って言って始めたんですけど思いのほか売れてしまって。人気ナンバーワンになったのはいいんですけど、伝票整理とかがすごく大変だったんです。彼女の協力なしでは成り立たなかったし、いい気づきも与えてもらった。おかげでコロナ禍はECでしのぐことができたし、それでノウハウが蓄積できたのでその後いろいろお話を頂いてもスムーズに対応できるようになった。それだけでなく、ECサイトやふるさと納税のサイトでも写真とかの見せ方についてカミさんにアドバイスをもらってそのとおりにやったら申込みが増えたりとか、もう「ありがとう」しか言えない。でもカミさんには「嘘くさい」って言われるんです。
ウチはいつもお昼ごはんは一緒に食べるんです。昼休みは絶対家に戻って食べるので「いただきます」と「ごちそうさま」は必ず言うようにしてます。「元気出る」とか「今日もおいしいごはんありがとう」とか言うんです。それも「嘘くさい」って言われますけど。
いま現場で働いてもらっていて、今日もアオサの異物除去の作業をしてくれていましたけど、カミさん、疲れたときにヒップホップを聴いたりするんです。この間「タトゥー入れようかな」とか言い出して「何入れるの?」ってきいたら「だるま」って。けっこう面白いんですよ。そして常に前向き。そこはすごいなと思う。
コロナで家族への感謝の気持ちが深まりました。誰か一人でも病気とかしちゃったら、やりたいことも思うようにできなくなるので。そこは当たり前になるのはよくないと思います。
アオサ養殖のご苦労で、
いまお話に出た異物除去があるとおっしゃっていましたが、
やはり大変ですか?

山田 大変は大変ですね。でもだんだんと、どんなゴミが入っていてどうすればいいかということがわかってきて、以前よりは大変ではなくなりつつあります。最初の頃はやってられないくらい大変だったんですけど、だんだんと見えてきました。日々進化です。あとはもう、頑張って儲けるだけですね。
異物除去はクリアしつつありますけど、苦労はまだあります。自分や従業員が働いた分がきちんと対価として反映できるようにするには、まだ少し時間がかかりそうです。
いろんな人に恵まれていまがある。
マルオトさんは代々牡蠣養殖をされてきたんですか?
山田 父方の祖父は木こりでした。木炭が燃料だった時代で、島から海にワイヤーを張って切った木をワイヤーで海に落としてそれを船で回収して長崎とか本土へ運ぶんです。そうこうしているうちにこのあたりでハマチの養殖が盛んになって、そのとき祖父はブリ養殖を始めました。ただ働き詰めで無理がたたって、60歳を超えた頃に亡くなってしまいました。
そのとき親父はまだ20代になったばかりで父親のブリ養殖を継いだんですが、続けていてもこれから先はわからないとふんだんです。当時、魚に与える餌はすごく貴重でした。ここが島ということもあって、船で長崎に餌を積みに行って持ってきて、それを魚に与えていたんです。冷凍の発達も物流の普及もまだなかった時代の話です。ブリってすごく食べるんですよ。それで、1キロの餌で効率よく太るヒラメに目をつけて、僕が大学生の時までヒラメの養殖をやっていました。そのころは日本のヒラメ生産量の1割を親父たちが作っていました。親父は特殊な編みを作って海面近くでヒラメを育てていたんです。それで年間500トンくらい生産できた。大型の活魚車も5台くらいあって、名古屋とか、大阪とか、福岡とか、週に3便出していたんです。そのうちに魚価が低迷してきて、一旦、親父は会社をたたみました。そのときに、遊んでいる漁場でなにかできないかと言って、長崎県が牡蠣の養殖を推進したんです。

それで2009年に牡蠣養殖を始めました。僕はまだ築地で働いていたんですが、仕事が休みの日には親父たちが作った牡蠣をオイスターバーとかに持っていって評価してもらっていました。牡蠣づくりは初めてだったので、自分たちが作ったものがどんなレベルなのかもわからない。オイスターバーなどで「こんなの売れない」とか「いいね」とか「他県のものがあるからいまさら長崎のは別にいらない」とかいろいろ意見をいただいて。
牡蠣はなかなか難しいのかなと思いはじめたころ、オイスターバーなどさまざまな業態の飲食店を展開している会社のマネージャーさんから「五島の牡蠣に興味があります」とメールをいただきました。それで下北沢の会社だったので、東京にいる僕がお会いして話をしてみたら、オイスター流通の実情とか仕組みなどを教えてくださった。それで、その会社にとっては競合他社となる会社を紹介してくださって、伺ったらこれでもかというくらい買ってくれて。そこ、そのマネージャーさんが前にいた会社だったんです。
それで親父とも、これはもう家の仕事にしていいんじゃない?という話をして。それでも年間1千何百万円くらいしか売れていなかったので、親父が「帰ってきてもお前の給料出せないよ」って。でも「自分で帰ってなんかするけん、いいよ」ということで30歳のときに帰ったんです。
当時、カミさんのお腹には3人目の子どもがいたんですが、カミさんに話したら経済的にいまと変わらないならいいよって言ってくれた。頑張るからって言って、とりあえず最初は貯金を切り崩しながら僕はそれこそ寝ずに働いて。だからいまよりも痩せていました。当時は喧嘩が絶えなかったですが、いまでは写真を見ながらカミさんと笑っています。そういう時期もあって、だんだんと牡蠣も売れるようになって、そしてアオサを始めました。
そのマネージャーさんとはいまでも付き合いがあって、その方、ウチの始まりの大本でもあるんですが、日本中の生産者とつながりがあって、お酒にも詳しいので、ゆくゆくはみんなで出資しあってその人の店を出したいねという話とかもしています。牡蠣業界のことのも本当によくご存知で、生きた情報をくださる大切な方です。僕らそうやって、いろんな人に恵まれていまがあります。
山田さんのお人柄ですよね。
離創協 先週、すでにほかのところと取引のある会社さんを「見るだけでも」って無理やりお連れしたんです。たぶん山田さんもそれを感じていたと思うんだけど、とても丁寧に対応してくれて。最後に「来てくれただけで嬉しいんです。こうやって会えて、五島の良さを見てもらえて、今日は本当にありがとございます」って深々とおじぎされた。お連れした会社さん、山田さんに惚れ込んで「僕、山田さんとこと取引したいです」っておっしゃってくださった。そのあと、その方「結局、人と人なんだよな」って。「こうやって対応してくれることによって、つながることができた。やっぱり来てよかったと思う」って言ってくださった。山田さんが丁寧に対応してくれている、それって本当に大切だなと改めて思いました。
山田 それ全員に言わないといけないです(笑)。本当にありがたいことです。ありがとうございます。
最初の北村社長のお話のときから、謙虚な方だなってずっと思っていました。
山田 やっぱり運を運んでくださるというか、そういうのってあるんですよね。悪い中に入っちゃうと自分まで引っ張られちゃうので、「歩くパワースポット」的な千野理事長がいらっしゃる離創協にはあやからないと、みたいな(笑)。でも、本当に、そこは自分なりに判断しています。そういうふうに人を見ちゃダメなんですけど。
アオサは売れる。いろんな形で、
この島で広がりを持ってなにができるかを考えたい。
アオサ養殖を始めて3年経って、
これからの夢とか、描いている展望などはありますか?
アオサの商品づくりは腕力のない女性や年配の方、もちろん若い方にもできる作業なので、僕らだけではなく、本業をしながらアオサのパック詰めをするとか、たとえばうどん屋さんの一室で異物除去してパック詰めするとか、そんなふうにいろんなところでいろんなアオサの加工をする方が増えるといいなと思う。本業が忙しいときは本業を、暇なときはアオサ詰めようぜ、みたいな。選択肢の一つとしていまの生活を崩さずにできるものなので、この島でいろんな形で広がりを持っていけたらいいと思います。

そのためには自分もメソッドを確立して、自分で自分をプロフェッショナルとして認められるところまでしっかり持っていかないといけない。正直、手探りで始めて、ようやく今年形になって、離創協さんにいろいろな方を連れてきていただいて、徐々にこれから広げていく中で、自分は自分が生産したものを売るだけでも生活はできますが、また違う形で、行政とか、携わっている方たちとなにか島全体でできることを考えたい。
実際、行政さんとかに入ってもらって催事場などでアオサを売ると1日で20〜30パックは売れるんです。なかには追加注文も入ることもあるくらい。だから、スーパーマーケットさんもいいんですが、対面で伝わるような場所で的確に売っていくというのもやっていけたらなと。あとは、1人集中的に都心部の催事を回るとか、車に在庫を積んで九州管内の道の駅を徹底的に毎日回るとか、ちょっと違う角度でも一度試してみたい。
1パックを1,000円で売るか1万円で売るかは自分次第というか。どこでその価値を認めてもらうかはお客様に手に取っていただくとことが第一歩だと思うので。広い視野で見て、そして高いところにピンポイントに売っていく。そのためには質を上げないと。そこまでできれば、将来的にみんなが生産量を上げてきたときに僕らもいろいろ教えたり、伝えることができるじゃないですか。そういうメソッドを確立したい。
僕は汗水たらして作ったものを、入札とかで売りたくはない。売り手も対等に買い手を選ぶことができる、そんな時代にしていきたいなと、そのくらいの心意気で真剣に取り組んでいます。
ブランド化が必要ですね。
五島列島で作ったというのがブランドになると思います。だから僕らは、その名前に恥じないように、五島列島とつけたからには名前倒れにならないように、そこは気持ちを引き締めて作らないといけないと思っています。
だから本当は、オレら生産者が一流にならないといけないんです。従業員一丸となって、仕事に対する思いや向き合い方を極めていく。オレらが作るんだからいいものに決まってるだろ、くらいの覚悟でいかないとダメです。そうやって一生懸命作ったものを食べてもらえたら嬉しいです。
